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2025年5月30日(金)

SPC

 私はある私立大学に事務員として勤めている40代の男である。ある日体調が余りにもすぐれないので休暇をとって病院へ行った。すると何度目かの検査の結果私は病気であり、しかもかなり重篤な状態だと医師に告げられた。致命的な病名を告げられて私はショックの余り家へどうして戻ったか一切の記憶がない。

 医師は直ちに入院が必要だという。しかしもはや手術は不可能だと言われた。

 「こんな状態で入院することにどんな意味があるのだろう?」と思った。せいぜい死ぬまでの間に痛みを抑えてくれることぐらいだろう。

 一番の心配は家族のことだった。少し前までごく一般的な家庭だと思っていた。私には二人の子どもがいる。15歳の男の子と12歳の女の子だ。妻は5年前に病気で亡くなっていた。私達は父子の一人親家庭だった。未成年の子供達の成長を楽しみに毎日仕事に励んできたつもりだった。しかし今や私のささやかで大きな夢はもろくも崩れ去ろうとしていた。

 とりあえず職場でしかるべき手続きを済ませた後で入院した。

 いろいろな検査を受けてもそれが空しい試みだと思うとやるせなかった。いろいろな薬も使用されたので副作用も苦しかった。しかもそれは再生への可能性の見出せない状態での試みである。私にとっては空しい時間の浪費にしか思えなかった。私はやるせない気持ちをかかえたまま何日もベッドの上で思い悩み、子供達の将来のことで頭が一杯だった。

 いずれなんらかの苦痛が襲ってくることだろう。体の痛みは医師が抑えてくれるかもしれない。しかしそのために引き起こされる副作用としての意識喪失や体全体の苦しさからは逃れられないだろう。意識がないだけまだマシな最後を迎えることになるのはわかっていたが・・・。

 人生はまさに思いがけないことが起きるものだ。それはなんとなくわかっていた。今まで父と母の最期を見てきたからである。

 二人の子ども達という最も大切なものを失うことだけはなんとしても避けたかった。二人が成人することが最優先である。生命保険に加入していたが私の葬儀費用+子ども達の養育費少々で終わることだろう。家のローンについては契約した時強制的に生命保険に加入させられたから保険金が残金返済にあてられることになっている。

 問題は子ども達の生活費と学資である。それが一番の悩みだった。私に代わる保護者が必要だったが妹や弟には頼めそうにない。妹は外国暮らしだし、弟は田舎で生活している。二人とも自分の家族があるから彼らに頼ることはできない。私が死んだ直後はいろいろ手伝ってくれることだろうが・・・。結局悶々としたまま死んで行くしかないことが悲しかった。

 自分が入院していたのは相部屋だった。隣には老人が入院していた。病気はかなり進行しているとの話だったが見た目には元気そうに見えた。

 半年が経った。いよいよ死期が目の前に迫ってきたのがよくわかるようになった。体調は最悪だった。

 「年貢の納め時だな。」とベッドの上で天井を見ながら一人嘆いた。そんな時隣のベッドのおじいさんが話しかけてきた。こちらは具合が悪いからあまり話したい気分ではなかった。

 「あんただいぶ具合いが悪そうだが大丈夫だよ。心配しなくてもいい。きっと良くなるから。」

 おかしなおじいさんだった。こっちが苦しんでいる時に言って欲しい言葉ではなかった。腹がたったから少しだけ言ってやった。

 「どうしてそんなことがわかるんですか。お医者さんでもないのに。」

 するとおじいさは言った。

 「わしにはわかるんじゃよ。あんたの寿命はまだつきていない。だから頑張りなさい。」

 私はただただ溜息をつくばかりだった。もう何の返事もしたくなかった。

 「あんたにいいものをあげよう。きっと役に立つ時がくるはずだ。」とおじいさんは言って一通の封筒を私に差し出した。なんとか腕を伸ばして受け取ったがお礼を言う気にもならずそのままベッド脇の台の上に置いた。

 苦しい一夜が明けた時おじいさんの姿は隣のベッドにはなかった。夜中に急に具合が悪くなってICUに運ばれて行ったがそのまま亡くなったとのことだった。看護師達はおじいさんには身よりがないと噂していた。

 自分は一人だけの病室でぼーっとしていた。

 「昨日あれだけ元気そうだったのにどうしたんだろう?」とそればかり考えていた。おじいさんからもらった封筒を開けてみた。

  「〇〇〇県○○○市○○○町 ○○○神社 北掘る」とだけ書いてあった。

 「なんだ、これは?」と思ったがそのまま引きだしにしまっておいた。

  妙なことが起きた。自分の体調が少しずつ回復しているのが感じられた。これは体が勝手にそう反応しているとしか思えなかった。自分の心や気持ちや考えなど超越していたとしか思えない作用だった。

  1ヵ月もするとすっかり体調がよくなった。数日後、担当の医師達は驚いた。なんと私の病気は完治していたのである。私はそのまま退院して家に戻った。

  今までの仕事にも復帰できた。そして子育てもなんとかうまくこなせることができた。二人の子ども達も無事に成人式を迎えることができた。とにかく大きな仕事を一つやり終えた気分で心の中は満たされていた。

 落ち着いたら私はおじいさんからもらった手紙のことが気になり始めた。あれから10年も経っていたがもらった手紙はまだ持っていた。ネットで調べるとそこに書かれていた神社は確かに存在していた。私は一度そこへ行ってみることにした。そこへは飛行機で行くのが便利だった。空港からタクシーで20分程でその神社に着いた。地方の小さな町のはずれにあるうっそうと木が生い茂っている小高い丘の上にその神社はあった。鳥居をくぐると急だが短い石段があり上るとすぐに神社の建物が見えた。とても小さい神社だった。周囲にはいくつかの小さな祠がおいてあるだけだった。私は神社にお参りした後、裏側へまわってみた。そこには何もなく落ち葉が積もっていただけで少し離れたとこは崖になっていた。「北掘れ」とはこの建物の北側を掘れということだろうかと考えた。

 私は一度帰宅して数日思案した。そして休暇を取って再度その神社へ向かった。今度は最初から宿を予約しておいた。

 夜10過ぎに懐中電灯を持って宿を出た。フロントでは怪しまれないように友人と飲む約束だと嘘をついた。私はそこから歩いて神社へ向かった。川沿いに30分も歩けば着くはずだった。昼間のうちにホームセンターでスコップを買い、それを川の土手の茂みの中に隠してあった。途中でそれを探して神社へ向かった。

  夜の神社は真っ暗でこわかったがここまで来て引き下がることはできなかった。急な階段をのぼり神社の北側裏手へ行き、適当な場所を掘り始めた。何も出なくても仕方ないと思っていた。あの老人の言ったことの真相を確認するだけで良かったのだ。それで胸のつかえがおりるならいいと思っていた。あの元気そうに見えた老人が急に亡くなったのと自分の体調に変化が現れたのがほぼ同時に感じられていた。それが奇妙な感情となって自分の心の奥に重くのしかかっていたのだ。老人の供養のつもりの穴掘りだった。

 少し掘っただけでいきなりカチンと手ごたえがあった。慎重に広く掘り下げていくと金属性の箱があった。小さなジュラルミン製のケースだった。取っ手を持って引き上げた。かなりな重量感があった。

 掘った穴を土と落ち葉で覆い隠しケースを持って神社から一目散に歩き始めた。ケースかなりが重いので苦労した。途中、土手を降りて川の水でケースについた泥を洗い落とした。そして宿泊先に戻った。

 部屋に戻ってケースを開けようとしたが鍵がかかっていた。そのまま飛行機に積んで自分の家に戻った。空港の手荷物検査では特に引っかかることもなかった。バールと金切り鋸で1時間位かかってようやくケースを開けることができた。布切れに包まれた重い棒状のものが10数本入っていた。金の延べ棒のようだった。自信はなかったがインターネットで調べたら一億円以上の価値があることがわかった。但し本物ならである。

 やはりこれは急いで現金に換えた方がいいと思った。本物かどうか確かめる必要があった。もし本物だったら安全な保管場所が必要になる。もしこのことが公になると、いくらおじいさんからもらったと言っても信じてはもらえないだろう。警察に調べられたり挙句の果ては没収されるかもしれない。

 少しずつ現金に換えることにした。貴金属買取店、質屋などがメインだ。休みの度に何軒もはしごしてすべてを現金に換え終わった時、手元の預金総額は7千万円ほどになっていた。正規の大型専門店で買い取ってもらうのは避けたかった。だから値切られても仕方なかった。

 私はその頃から経済関係の本を読み漁るようになっていた。200冊位読み終えた頃、一つのまとまった考えに到達した。

 私は手持ちの資金でできるだけ多くの株を買うことにした。折しも乱費が原因で国の借金である国債が暴落し始め、つられて株も為替も暴落していた。そこで将来再浮上する可能性のありそうな株を底値近くで大量に購入したのである。そして円安が進むにつて日本の経済は輸出を中心に次第に回復基調に乗り始めた。数年もするとそれは一層明らかになり私の資産は次第に増えて行ったのでさる。

 株価は上がり続けて行き、私の資産は信じられない位に大きくなった。その時点で私は財団法人「Single Parent Center(SPC)」を設立した。これは母子家庭や父子家庭でその一人親が致命的な病気になった時、親の死後、子供が成人になるまでの生活費と教育費を肩代わりするものである。こうすることでピンチに陥った状態にある親と子供に安心を提供するというシステムである。私はこのセンターを設立できたことで老人の好意に対して何かお返しができるのではないかと考えた。取り戻した自分の命とそして再度得た子供達との生活はかけがえのないものだった。その御礼に今度は私が他の人達の手助けができればこれにすぐる幸せはないと思っている。

(注)

 本作品は作者の創作によるフィクションであり、現実に存在するものとは全く関係ありません。

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