目の前には一面の黄緑色の絨毯を敷き詰めたかのように牧草地が広がっていた。牧場主の佐藤賢治に誘われて伊東公男はやってきたのだった。
そよ風の吹く草原を眺めながら二人はイスにすわって目の前のテーブルの上にあるミルクを味わっていた。大きなガラスの入れ物にはできたばかりの新鮮なミルクがたっぷりと入れてあり、それをグラスについで飲むと実においしかった。適度の濃さと少しばかりたんぱく質を連想させる香りにすっかり満足してしまった。佐藤は言った。
「近いうちに新工場建設に着手する予定なんだ。大々的に人工血液製造に乗り出すんだ。」
「ほ〜!それはすごい、ついにそこまで来たか。お前もやるねえ。」
「いやここまで来るのは大変だった。覚えているだろう。フロムBトゥーC運動ってやつ。」
「もちろん知ってる。残酷で野蛮なことをやめてさわやかにクールにやろうという運動だね。」
「そうだ。From Barran to Cool だ。このBarranが問題だった。人間は余りにもたくさんの生き物の命を奪ってきた。それが生きるための自然な所作だと誰もが思っていた。でも2050年代に食物合成法が成立して以来、研究が進んだ。そしてとうとう俺みたいに草からミルクを作ることに成功するやつが続々出てきた。」
「そうだね。牛や馬は草を食べてミルクを出す。それどころか自分の体のたんぱく質も草から作るんだからね。でもそれは牛や馬や羊やヤギや鳥にしかできないと思われていたんだろう。」
「そうだ。でも特別な分解酵素とたんぱく質合成酵素とあと西都大学の外川教授の発見したJET細胞を使えば草からミルクを合成できることがわかったんだ。」
佐藤は今や草から作るミルクだけでなく肉まで作れるようになっていた。このミルク牧場にはミルク合成工場があるし、同じ敷地内に牛肉合成工場、豚肉合成工場、鶏肉合成工場まである。その原料になっているのが今目の前にある緑に生い茂った草である。だから佐藤の牧場には牛も馬もいない。ただ一面の緑の草のための牧場だった。海外の研究所では海草から魚肉を作る研究をしているところもあった。
佐藤は続けて言った。
「今まで血液は献血でしか補えなかった。でも合成血液ができれば献血という人から血液を取り出すという野蛮なことをしなくてもすむ。どうだ、すごいと思わないか。献血の度に痛い思いをしなくてすむ。第一、献血で病気が移る可能性はゼロになる。血液成分も希望のものができる。必要な血液型も思いのままに造れるんだ。」
「まさに革命だね。」
「ただ一つだけ気になることがある。」
「何だい、それは。」
「食物連鎖だ。我々は地球上でお互いに食って食われる関係にある。」
「それはわかる。だけどそれが何故問題なのかね。」
「いいかい、考えてみろよ。今の勢いでいけばいずれ人間が生きていくのに必要な食物はほとんど全部合成できる時代が来るだろう。それもそう遠くないうちにだ。そうなるとどうなる?」
「どうって、ありがたいことだろう。」
「確かに人類は食物の奪い合いをしなくなるだろう。十分な食料があるからだ。すると人類はもう食物連鎖から解放されるんだよ。もちろん、我々が死ねばバクテリアが我々の体を分解して土にもどしてくれる。我々は彼らのえさになるわけだ。でももう我々は他の生き物を食わなくてもいい時代になる。他の命を奪っているという罪悪感からも解放される。これはすごい進化だと思わないか。仏教でいう所の煩悩の一つからの解放だ。いってみれば永遠の命を得るのと同じ位すごいことだ。でも果たしてそんなことが許されるのだろうか。」
佐藤の予感は当たった。しかも合成ミルクと合成肉の段階で明らかになった。人々が家畜の肉を食べなくなったために家畜の数が異常に増えてしまった。最初簡単にコントロールできると思っていたのだが、予想以上にてこずってしまった。溢れた家畜達は合成ミルクや合成肉の材料となる牧草を片っ端から食べ荒らしたのである。
困った政府はコントロールできない家畜を殺処分せざるを得なくなった。ついには国連が合成肉の製造を禁止するに至った。人々は再び牛や馬や豚や鶏を飼い、それを食する生活パターンに戻っていった。今では宇宙旅行船の中でのみ牧草の栽培が行われ、合成ミルクと合成肉の製造が行われている。
地球上では人間は食物連鎖から逃れることはおそらくできないのだろうというのが国連食料計画(国連WFP)の結論だった。
本作品は作者の創作によるフィクションであり、現実に存在するものとは全く関係ありません。
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