タケオはJET細胞研究所付属の病院の玄関を出たところで辺りを見回した。もっとも彼の左目には何も見えない。右目で確めるしかなかった。彼は今から視覚工学研究所へ向かうところだ。緑内障で左眼の視力はほぼゼロまで落ちており、残った右眼も同じく緑内障の末期だった。右眼だけでもなんとか歩行はできるが視野がかなり縮小しているので本当は誰かの補助が必要だった。緑内障の主原因は眼圧の上昇により脳に繋がる視神経の根元が圧迫されて、周りから次第に神経細胞が死滅していくことである。最終的には失明する。彼はこのJET細胞研究所で近年盛んに行われている視神経の再生治療に淡い期待を抱いていた。しかしタケオの眼の条件がJET細胞による視神経の再生に適していないと予備検査の段階で告げられたのである。教授は落ち込んでいるタケオに言った。
「このJET細胞研究所と同じ敷地内に視覚工学研究所というところがあります。そこへ行ってみてはどうですか。紹介状を書きます。」
今から35年ほど前に全国的な研究学園都市建設計画が持ち上がった時、候補地の一つとなったのが今タケオのいる場所であった。 残念ながらその時は研究学園都市にはなれなかった。しかしその後郷土出身の企業家が私財を投じて広い敷地を確保してそこにJET細胞研究所と視覚工学研究所を設立したのだった。当初空港から来るまで1時間半ほどかかっていたので当初はヘリコプターで行き来していた。しかし空港から研究都市まで新たに特急の路線が敷設されて今では極短時間で来れるようになった。 そしてJET細胞研究所を中心に新たな研究都市ができつつあった。
視覚工学研究所の田村幸雄教授はJET細胞研究所の外川教授からまえもって連絡があったためかすぐにタケオに会ってくれた。その点はラッキーだった。
「私達はJET細胞で視覚を回復できなかった方のために新しい視覚補助装置を開発しています。具体的には画像音声化システムといいます。簡単に言うと機械の目で見たものを言葉に直して視覚障害のある人に音声で説明する器械です。」
なんだかよくわからなかった。タケオが理解するのに戸惑っているのに気付いた田村教授は続けた。
「実際の使用例がありますのでそのビデオをご覧ください。」
ビデオの説明が始まった。
「例1です。あなたの正面には細い道路があります。長さ約30メートルの直進道路です。道路の左右にはブロック塀があります。あなたは今道路の右側にいます。あなたと右側のブロック塀との隙間は30㎝です。左側は3メートルあいています。左右のブロック塀の高さはそれぞれ約1.5メートルです。地面には苔らしいものが生えています。ちょっと濡れていてすべるかもしれません。向こうからは誰も歩いて来ません。30m先はT字路になっています。その左右の道路の幅は約5メートルあります。今左から右へ乗用車が横切りました。」
「例2です。あなたは今、川沿いの土手の上を歩いています。あなたの右側下には川があります。川までの距離は約7メートルで緩やか斜面になっています。斜面には短い雑草が一面に生えています。そこを流れている川の幅は約20メートルで水位は浅い感じです。あなたが今歩いている道路には砂利が敷き詰めてあります。少し埃っぽいです。向こうから2人の人が歩いて来ます。あなたとの距離は約50mです。2人はあなたから見て左側を歩いて来ます。一人は男性でもう一人は女性です。あなたから見て男性は右側、女性は左側です。2人は並んであなたの方へ歩いて来ます。服装は男性が上下紺のジャージで女性は黄色のブラウスに少し少し明るい茶色のスラックスです。」
「例3です。あなたの目の前には大きな建物があります。〇〇〇スーパーです。正面に玄関の入口が見えます。あなたから入口までの距離は約7メートルです。今、あなたの他に3人の人がそこへ向かっています。あなたと同じ方向に歩いていますが今のところお互いにぶつかる心配はありません。そのまま進んでください。正面のドアから一人出てきました。あなたの正面、向かって右前方3メートルです。このままならぶつからないですれ違えそうです。そのまままっすぐ歩いて下さい。少しずつ上りの緩やかなスロープになっています。あなたの目の前2.5メートルのところに高さ5センチ位の段差があります。今のあなたの歩行速度なら約3秒後に段差に接近します。・・・あと70センチで段差です。はい、今あなたの左足の前方10センチのところに段差があります。今ここで右足を大きく上げて下さい。もう少し!はい、今段差に上がりました。あとは平なのでそのまま勧めます。」それから15年の年月が流れた。 場所は特別科学裁判所の法廷である。 ここは通常の裁判所と異なり、科学技術関連の専門研究事案の裁判のために新たに設けられた裁判所だった。5人の裁判官のうち中央のメガネをかけた40代後半と思われる裁判長が判決文を読み上げるところだった。
「被告〇〇〇〇は人類に大きな福祉をもたらすことが大いに期待されていたその研究成果及び特許技術を海外メーカーへ違法に伝え、引き換えに莫大な利益を得た。また精密器械局からの多額のな研究助成金を水増し請求しそれを私利私欲のために使用した。国民の財産及び税金が無駄に使われたのである。これれは誠に遺憾であり被告には厳重罰として懲役15年を言い渡すものである。」
裁判長は判決文をゆっくり読みあげていく。時折短い休みが入っていたが被告も傍聴席の傍聴人達もそのことは余り気にしていなかった。
裁判長による判決文のすべての朗読が終わったかと思われた時新たな言葉が発せられた。
「一言言っておきたいことがあります。私はあなたが発明した画像音声化装置のおかげで助けられた一人です。当時困っていた私に新たな希望を与えてくれたあなたが犯罪に手を染めてしまったことがとても残念です。個人的には私は今でもあなたにとても感謝しています。」
確認はゆっくりと目を上げて裁判長の方を見た。なんとなく見覚えがあった。そして思い出した。
「でも」と思った。
「彼は昔あの後、全盲になったはずだ。」
この十数年の間に画像音声化システムは活気的な進歩を遂げていた。画像を取り込むカメラは極小サイズにまで小さくなり、メガネのフレームの中に埋め込まれていた。音声は裁判官の耳の中に外から見えない位小さい形でおさまっていた。そして信じられない位の薄さと軽さのAIデバイスは彼の法衣の下のベルトにしっかり固定してあった。裁判長が判決文を読み上げる時、一節ごとに間があいたのはその音声を聞き取っていたからである。
被告の顔に一瞬笑みが浮かんだように見えたがすぐに消えた。裁判長は裁判の終了を告げた。
本作品は作者の創作によるフィクションであり、現実に存在するものとは全く関係ありません。
・
・
・
・